2012年5月6日日曜日

今がんばっていること・取り組んでいること


頑張らないといけないと思うことは山ほどあるのですが、現在進行形で頑張っていることと言われるとなかなか難しいですね。瀬尾さんに振り落とされずについていくこと、遅々として進まないデータの書き起こし、いろんな締め切りを守ることなどなど。結局、今回も締め切り間際ですが...。何を書こうかと考えてみたのですが、今はお休み中ということもあり、普段あまり話さない自分の研究の話でも書いてみようかと思います。

前回のポストにも書いたのですが、日本語教育に足を踏み入れたのが小中学校における日本語教育で、実は大学の卒業論文でもそれに関することを書いているので、現在も言語マイノリティ児童・生徒に関係することを調査・研究していることを考えると、10年以上この問題に関わっていることになります。海外からで、本当に深い関わりはできていないので、長さだけが取り柄ですが...。現在は、日本国内の言語マイノリティ児童・生徒の社会経済的移動について、社会階層がどのように影響し、その過程に学校教育がどのように関与しているのか明らかにすることを目標に調査・研究をしています。

教育に対する階層という要因の重要性はこれまでも指摘されてきたのですが、特に言語マイノリティへの教育となると、それと切り離して、言語や文化、民族性に焦点が当てられたり、日本社会の特殊性がことさらに取り上げられたりすることで、社会階層が教育効果や教育機会に及ぼす影響は十分に研究されてきたとは言い難いところがあるのではないかと考えています。そこで、言語マイノリティ 児童・生徒にとって、社会経済的底辺からの脱出とは何を意味するのかという点を出発点として、学校教育が言語マイノリティ児童・生徒にどのような影響を与 えているのかを,社会階層に重点を置き研究していきたいと思っています。その中で、日本の学校教育が抱える様々な問題と結びつけ考察することで、言語マイ ノリティ児童・生徒のみを対象とせず、本質的な教育問題の解決策を提示することを目的としたいと考えています。

結局、取り組んでいることから目指すものに変わってしまいましたが、こんなことを現在しています。これに関連して、名古屋の国際研究大会では『トランスナショナルな意識をはぐくむためのバイリンガル紙芝居活動―中国帰国者週十地域の幼稚園における試み―』というタイトルで発表をします。おっと、宣伝ですね。そういえば、これの原稿の締め切りはいつでしたっけ?

2012年2月6日月曜日

新刊・宣伝・兄の感想

このブログに書いて宣伝になるのかどうかわかりませんが、載せていただいたので。
週刊ルビュ言語文化教育から申し込むと特別価格で手に入るそうです。ぜひ。



ちなみに兄に、要旨すら意味わからんと一蹴されました。
もっとわかりやすく書くよう心がけます。

2012年1月29日日曜日

わたしが日本語教師になったわけ

日本語教師になりたいと思ったのが15歳のときなので、ちょうど今日で、人生の半分、そんな風に考えながら過ごしてきたことになります。そんな節目の日に、こんなお題が与えられたことに、ちょっとびっくりしている...というのは、締め切りのギリギリにポストする言い訳です。

教師という仕事には子どものころから興味があったのですが、やはり大きかったのは教師である両親の影響でしょうか。ただ、正直なところ、学校だけじゃなくて家にも先生がいるような気がして、子どもとしてはおもしろくなかった記憶のほうが多いです。家族旅行に行くにしても、どこかしらで社会見学を盛り込んでみたり。家族で登呂遺跡に行くことなんて、まずないですよね。ただ、今から考えると、旅行だけではないですけど、いろいろな経験をさせてくれたし、教えてくれようとしていたんだと思います。まるで他人事で、両親に読まれたら怒られそうですが、学ぶことの楽しさ、大切さを教えてくれたのは、両親だったと思います。

海外に出たのも、実は両親の影響なんですよね。市内在住の小学校6年生を対象に、姉妹都市との1週間ぐらいの交流プログラムがあり、それに参加したのが初めての海外でした。そのおかげかどうかわかりませんが、高校も「国際教養科」と呼ばれるコースに入りました。このころはまだ英語とか欧米的なものに対する漠然とした憧れ程度のものだったと思います。そんなちょっと軽い気持ちで入った高校で日本語教育に出会いました。高校1年生のときに、オーストラリアのダーウィンという町での短期語学プログラムに参加することになりました。ダーウィンは、オーストラリアの北の端にある小さい町で、観光地からは離れているので、ほとんど知られていませんが、第二次世界大戦中は日本軍の空襲を受けるなど、オーストラリアの中でも日本と歴史的に深い関係のある町です。滞在中も、砲台跡などを見学する機会がありました。

そのプログラムに入っていたのが、コミュニティセンターの日本語コース見学でした。そのとき初めて、日本語を勉強する人たちと日本語を教える先生の存在を知りました。見学中に学習者とペアを組んでするアクティビティがあり、バジルさんという、祖父と同年代の方とペアを組むことになりました。その当時で70歳ぐらいでしょうか。祖父も戦争の話はよくしていたので、戦争の話なんかをされたらどうしよう...などと考えていたのですが、そんなことはなく、楽しく時間は過ぎていきました。滞在中にもう一度、街中で偶然、バジルさんに会うことがあったのですが、「こんにちは」と日本語で挨拶してくれました。その時、なんとなくではあったのですが、日本語を教えるというのは、単純に言語だけを教えるんじゃないんだなーと感じ、日本語教育に興味を持ち始めました。今から考えるとこんな薄い描写になってしまうのですが、当時はどうやらもっと衝撃的だったようで、高校1年生の面談で、将来通うことになる大学の日本語専攻を志望校にすることを担任に伝えていました。

その後は、大学で日本語教育を専攻し、年少者日本語教育ボランティアに携わったりしながらも、一般企業に就職することを考えたり、教員採用試験を受けることを考えたりしていました。結局、卒業後は1年間、公立中学校の日本語教室をお手伝いすることになりました。運命だった...と言えればカッコいいのですが、行き道がなくなったのを母校の先生が拾ってくれたというのが現実です。それでも、そこで日本語教室をお手伝いしてから現在に至るまで、年少者に対する日本語教育に一部ではありますが、関わり続けていること、また対象は違いますが、日本語教師として生きていく切欠になったことを考えると、やはり運命だったのかもしれません。その後もカナダ、香港、アメリカなどをフラフラし続けていますが、それはまた別の話です。

寄り道はしながらも、15歳のときになりたいと思った仕事ができているのは本当に幸せだなぁと思いますが、両親のように学ぶ ことの楽しさ、大切さを伝えられるには、まだまだ未熟で、もっともっと努力が必要だと感じています。今回、自分の経験を振り返ったり、みなさんのエント リーを読んだりして、一層その気持ちが強くなりました。まだ日付が変わったばかりですが、もう充実した三十路の予感です(笑)