日本語教師になりたいと思ったのが15歳のときなので、
ちょうど今日で、人生の半分、
そんな風に考えながら過ごしてきたことになります。
そんな節目の日に、こんなお題が与えられたことに、
ちょっとびっくりしている...というのは、
締め切りのギリギリにポストする言い訳です。
教師という仕事には子どものころから興味があったのですが、
やはり大きかったのは教師である両親の影響でしょうか。ただ、
正直なところ、
学校だけじゃなくて家にも先生がいるような気がして、
子どもとしてはおもしろくなかった記憶のほうが多いです。
家族旅行に行くにしても、
どこかしらで社会見学を盛り込んでみたり。
家族で登呂遺跡に行くことなんて、まずないですよね。ただ、
今から考えると、旅行だけではないですけど、
いろいろな経験をさせてくれたし、
教えてくれようとしていたんだと思います。まるで他人事で、
両親に読まれたら怒られそうですが、学ぶことの楽しさ、大切さを教えてくれたのは、両親だったと思います。
海外に出たのも、実は両親の影響なんですよね。
市内在住の小学校6年生を対象に、
姉妹都市との1週間ぐらいの交流プログラムがあり、
それに参加したのが初めての海外でした。
そのおかげかどうかわかりませんが、高校も「国際教養科」
と呼ばれるコースに入りました。
このころはまだ英語とか欧米的なものに対する漠然とした憧れ程度
のものだったと思います。
そんなちょっと軽い気持ちで入った高校で日本語教育に出会いまし
た。高校1年生のときに、
オーストラリアのダーウィンという町での短期語学プログラムに参
加することになりました。ダーウィンは、
オーストラリアの北の端にある小さい町で、
観光地からは離れているので、ほとんど知られていませんが、
第二次世界大戦中は日本軍の空襲を受けるなど、
オーストラリアの中でも日本と歴史的に深い関係のある町です。
滞在中も、砲台跡などを見学する機会がありました。
そのプログラムに入っていたのが、
コミュニティセンターの日本語コース見学でした。
そのとき初めて、
日本語を勉強する人たちと日本語を教える先生の存在を知りました
。見学中に学習者とペアを組んでするアクティビティがあり、
バジルさんという、
祖父と同年代の方とペアを組むことになりました。
その当時で70歳ぐらいでしょうか。
祖父も戦争の話はよくしていたので、戦争の話なんかをされたらどうしよう...などと考えていたのですが、
そんなことはなく、楽しく時間は過ぎていきました。
滞在中にもう一度、街中で偶然、
バジルさんに会うことがあったのですが、「こんにちは」
と日本語で挨拶してくれました。その時、
なんとなくではあったのですが、日本語を教えるというのは、
単純に言語だけを教えるんじゃないんだなーと感じ、
日本語教育に興味を持ち始めました。
今から考えるとこんな薄い描写になってしまうのですが、
当時はどうやらもっと衝撃的だったようで、高校1年生の面談で、
将来通うことになる大学の日本語専攻を志望校にすることを担任に
伝えていました。
その後は、大学で日本語教育を専攻し、
年少者日本語教育ボランティアに携わったりしながらも、
一般企業に就職することを考えたり、
教員採用試験を受けることを考えたりしていました。結局、
卒業後は1年間、公立中学校の日本語教室をお手伝いすることになりました
。運命だった...と言えればカッコいいのですが、
行き道がなくなったのを母校の先生が拾ってくれたというのが現実
です。それでも、
そこで日本語教室をお手伝いしてから現在に至るまで、
年少者に対する日本語教育に一部ではありますが、
関わり続けていること、また対象は違いますが、日本語教師として生きていく切欠になったことを考えると、
やはり運命だったのかもしれません。その後もカナダ、香港、
アメリカなどをフラフラし続けていますが、
それはまた別の話です。
寄り道はしながらも、
15歳のときになりたいと思った仕事ができているのは本当に幸せ
だなぁと思いますが、両親のように学ぶ ことの楽しさ、大切さを伝えられるには、まだまだ未熟で、もっともっと努力が必要だと感じています。今回、自分の経験を振り返ったり、みなさんのエント リーを読んだりして、一層その気持ちが強くなりました。まだ日付が変わったばかりですが、もう充実した三十路の予感です(笑)